ミドさんのブログ

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一関市国民健康保険藤沢病院

 昨日からブログに書こうとしていたことがあったが、今朝の新聞を見て、こちらを先にと思った。読売新聞「展望2023」である。人口約7200人の一関市旧藤沢町(藤沢地域)の病院についての記事だ。

一関市、藤沢病院(ネットより)

私たち地域の昔の診療所

 私たちの街・地域にもかっては病院があった。診療所と言われる医師と看護婦が一人ずつの小さな町の診療所である。このお医者さんは往診もしてくれた。

 このお医者さんには感謝しかない。よく覚えていない小学3年の時に肺の病気にかかり3学期を全休した。そして小学6年の3学期も全休した。これは心臓弁膜症とこの医師に診断され、東京の東京女子医大の榊原医師に見せてきなさいとアドバイスをもらった。その結果、中学高校大学と運動は一切やらず、会社へ入社。そして、仕事の関係で世界をあちこち歩いた。そして30歳の頃だったと思うが、毎年、会社で受ける検診で「もう治っていますよ」と言われた。そう言えば、田舎の診療所のこの医者は、「後天的な心臓弁膜症なので、治る可能性もありますよ」と言っていたことを思いだした。

 

立派に再建なった藤沢病院

 当時の田舎のお医者さんは、地域全部の人たちの病気の経緯などを頭に入れていた、頼りになる医師だったのである。冒頭の記事は、そんな田舎の病院のことである。でもネットの写真を見る限り、大きな病院に現在では成っているらしい。 

苦境にあえいでいた当時(1980年)から現在に至る経緯(2度も大臣表彰)

 上記の沿革にも書かれているが、診療所経営に行き詰まり、1980年に診療所を閉鎖し、その後1994年から「一関市 藤沢病院」として再出発した後の経緯である。

 この間の物語を、「展望2023」で紹介している。恐らく、これだけ大きくなれば、藤沢地域だけではなく、一関市の基幹病院に現在では成っているのだろう。1994年に開所当時は、「長時間待たされる、診察もしないで薬を出す」などと評判が良くなかったらしい。それを立て直した医師がいた。

 

立ち上がった住民と病院

 その方法とは、地域の住民との交流だった。「藤沢病院を支える会」を結成し、病院改革がなされた。その後苦情も収まり、改革を続けた。2021年には、亡くなった患者の家族12人から134万円が寄付されたという。それは、住民たちの「たった一つの病院をなくしてはならない」との思いからだという。こうした住民の活動は、病院に関する通院の送迎、除雪、配食にとどまらず、地域全世帯で実施する草刈りで田園風景を維持している。その結果、新住民を呼び込み移住者が66世帯中10世帯にもなっているという。

 

自分ができることは全部やる

 我々の地域でも、農地を持っている住民が集まり草刈りなどで田園風景を維持しているが、一般住民まで巻き込んだ活動にまで発展していない。この地域に移り住んだ住民は、「自分が出来ることは全部やっている。自分たちで地域を守っていく」との強い決意を述べている。狩猟免許をとり鹿を駆除、消防団も担う。農地整備完了後には、移住者たちが農道の草を刈り、地域全体で農地を守る構想だという。

 

後藤新平岩手県出身)のことば

 最後に、岩手県の政治家「後藤新平」の言葉が出てきた。

人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして酬いを求めぬよう

ネットで、後藤新平の他の言葉を調べた。よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」が、最後の言葉だったようだ。

 住民の力、人の力である。