大日本大震災、その時・・・
「ゴー、という地鳴りのような、ともかく気持ちの悪い音が聞こえたのである。・・その音で、本能的にその後に来る大きな揺れを察知したのか、すぐ立ち上がり、サッシを開け、スリッパのまま外へ飛び出した。・・・ガタガタとを立てて揺れる我が家を見ていた。・・屋根瓦の割れる音、庭先に瓦が落ちてくる様子、・・・隣の家の屋根から瓦が落ちるかもしれないと思い、どちらかも避ける位置に、呆然と立ちすくんでいた」
小書「時代の遺書」の「東日本大震災、その時私は?」の一節である。
大震災の語り部
昨日、近くの県北生涯学習センターで、「ICT活用による地域防災に係わる、第1回交流会議」が開かれた。
「未来のいのちを守るために」と題し、うのすまいの、語り部 川崎杏樹氏の講話もあった。「うのすまい」とは、釜石市鵜住居町のことであり、大槌湾に面した釜石市北部の町である。彼女が働く釜石市の「いのちをつなぐ未来館」からリモートでの講話だった。
当時の避難の様子
当時中学2年生だった彼女の話は、津波の迫る様子が手に取るようにわかり、その一瞬、一瞬の心・気持ちが分る ”語り” だった。地震の時は体育館にいたという。そして、最初は天井の電灯が落ちるのではと思いグランドに避難した。というのも、当初はそれほど揺れが大きくなかった。その後、大きな地震となり避難を開始した。最初は標高が4mほどの「ごさいしょの里」。近くで山崩れも起き、そこでは危ないと更に3,40分標高の高い「山崎ディサービス」へ辿り着いた。その時、大きなうなりのような音を耳にしたという。その時見た光景が、自分たちの町を襲う津波だったという。そこでも危ないと今度は、整列などせずみんなバラバラに必死に走り、更に上の「恋の峠」まで逃げたという。
頼れるのは自分
災害時は停電になり、校内放送も使えなかった。そして頼りのスマホも使えなかった。防災無線だけが地域の情報を伝えたという。余りスマホなどに頼りすぎないことだともいう。命を最優先に、情報を過度に信じず行動すること。しかし、「備える」段階ではスマホも大いに利用したら良いとも。
いつか災害は必ずやってくる。そして、その「いつか」が今になる。自分事として捉えることが重要だと。
地域の防災活動
今年の3月8日のこのブログで、我が家の当時の被害などは報告した。その時、地元の子ども達への教育用にPPTを作った話を載せ、こうした資料が役立つときが何時来るのか、と書いた。
今日、ファイル等を整理していたら、本棚の隅からビデオが出てきた。平成30年の防災訓練を録画した物だ。しばらくぶりに眺めて見た。
今度、こうした、折角あるPPTやビデオを地域のみんなで見る機会を作るよう地域役員に働きかけよう。
「いつかは、今かもしれない」から。