書きかけて、1週間も経ってしまった。何を書こうとした事さえも忘れてしまった。
浅い知識
私のような面倒くさがりで自分の興味があることにしか目を向けない人は、知識が浅く博識ではなくなる。若い頃からそうだった。年老いて尚更その傾向が強くなった。一見博識そうに見えるから損をしている。バカに見えれば、教えてくれる人は一杯いるのに知ってそうに見えるから誰も教えてくれない。ますますバカが助長される。こういうのを悪循環というのだろう。
曖昧な喪失
何日か前の朝刊に”あいまいな喪失”という記事が載り、例として「さよならがない別れ」と「別れのないさよなら」が書かれていた。
シルバーリハビリ体操
毎週月曜日はシルバーリハビリ体操の日だ。20人弱が地域の集落センターに集まり指導士のリードで1時間体操をする。コロナ前は1時間半だったが、コロナが落ち着いたころから再開した体操は1時間に縮小している。
隔週で、マット上で寝転んでする体操と椅子に座ってする運動が交互に行なわれいる。いつも常連の方ばかりだが、新人が二人入った。新人と言っても60歳を過ぎた高齢者で、知り合いである。入会した理由が、試しにやってみたシルバーリハビリのお陰で、体の一部が動くようになったというのである。
喪失する筋肉
そして体操前こうした人たちとの話。毎日どこかが自分の意思に関係なく動かなくなるというのである。ちょっとしたところが動かなくなるのを感じるというのだ。若いときは動かなければ、無理にでも ”動かす” 事をするモノだが、年老いてくると ”動かさない” モノだから、ますます動かなくなるのだ。
そういう意味で、この体操は指導士の皆さんのおかげで ”無理矢理動かす努力をする” ことで、動くようになる。
喪失する記憶
若いときは、体ばかりでなく知識もどんどん蓄積されるが、歳取ると今までの経験で生きているようなところがあり、知識を取得するカーブがなだらかになり、更に、物忘れが多くなり記憶も曖昧、そして物覚えも悪くなる。
物忘れの曲線は?と思いネットで調べるとこんな曲線が出てきた。何となく分る気がする。そして若い頃の成長曲線である。今は、忘れる記憶量に追いつけない成長だから結果としては、忘れていく記憶、動かない筋肉がどんどん日増しに増える。
毎日を楽しく暮らす
主題の曖昧な喪失とは大分違うが、なぜだか分らない喪失がどんどん増えるのも、歳老いた証拠だろう。
そんなことを考えないで、毎日楽しく暮らすのも年寄りの特権でもある。それにしても、毎晩飲むお酒に救われている。